数奇草

四畳半に魅せられた理系学生の備忘録

目まぐるしく過ぎゆく年月

 

 先々週は僕の変化のない大学生活にしてはちょっと刺激的なことがあったのでそれを今日からだらだらと書き連ねたいと思う。

 

 まず、祖父が亡くなって生まれて初めて葬式に参列した。住職が念仏を唱えている中で参列した人たちがお香を供えて手を合わせる様をぼーっと眺めているだけだったのだが、不思議とその光景が今でも脳裏に鮮明に残っている。

 亡くなった祖父に触れたときはひんやりとしていて、本当に中にあった何かが抜けたようだなと思った。日頃は死とはなんだろう、人に魂はあるのだろうか、なんて考えることもあった。そして、やっぱりこういう実体験というか死を間近に感じるときがあるとなおさら考え込んでしまう。

 父は祖父を見てまるで眠っているようだと言った。しかし僕はそこにあるのは抜け殻みたいにしか見えなかった。息をしていたときの祖父にあった生きるという感じを全く感じることができなかったのだ。

 連綿と受け継がれる遺伝子の波を伝えてくれた祖父。彼の生きた証が僕の身体の中を流れていることを思うとどこか感じたことのない感覚が襲う。むずがゆいような誇らしいような、文章じゃ表現できない。(こういうのを表現できるようにならないと分で食べていくなんて到底無理な話だと思う)

 

 

 

 早いもので5月も残すところ今日を含めて3日になっていた。(と思っていたらすでに日付は30日だったようで一日損をしてしまった。)

 今年は五月病にかからないぞと意気込んだ僕は精力的に上旬は過ごしていた。しかし、今になってそのしわ寄せが来たらしくやる気が全く起きない。

 しかも最悪なことに定期的に押し寄せてくる鬱も相まって結構精神的にひどいありさまになっている。劣等感、不安、焦燥、今の僕の胸の中にはそういう気持ちが一杯詰まってしまっている。文を書こうにも何も思い浮かばずに投げ出すことも多い。教科書を開いても思考が脳の表層をすべるだけで何も考えられずに泣き出したくなることもしばしばだ。

 

 僕はからっぽな箱にすぎないのだろうか。今までの僕の生き方は装飾を施すだけで中身に何も詰めることのないものだったのだろうか。実際ふたを開けてみると角に埃が溜まっているくらいなのだろうか。

 

 あぁ文章が全然うまくなくて腹が立ってくる。こんな駄文を書き連ねて何になるんだろうか。書けば少しは気分転換になるかとでも思ったが気分は一層めいってきた。チャンスが一切振ってこない怠惰でぬるま湯の大学生活をこれ以上続けていたら頭がおかしくなりそうだ。いや、大学生活が悪いのではない。僕が悪いのだ。

 

 それにしても本当に思考の整理がなっていない文章だな。こんなの読んでもつまらない。価値があるとは到底思えない。

レールに沿って生きる

 

 小学校からの友人に久々に誕生日を祝うメールを送った。彼は今年から新社会人になり、僕みたいな学生からしてみたら未知の世界に足を踏み込んだように思える。

 それでも彼はあまり変わっている様子もなく、毎日を過ごしているそうだ。

 

 社会に出るとはどういうことなんだろう。僕はもし院の博士課程まで言ったとしたら七年は学生でいることになる。大学という温室で甘やかされてそんなに長い期間育ってしまったら温室なしで生きられないのではないだろうか。

 しかし、今のところ僕にはそれ以外の自分の進路がわからない。漠然としすぎているのだ。別になんとしても院の博士まで行きたいというわけではない。修士まででもいいし学士まででもいい。ただ急いだからといって何かチャンスをもぎ取れるわけでもないだろう。だから僕は最長の自分の予定として後七年と言っているのだ。

 

 勉強をするのは苦しいけどたまに楽しいこともある。苦:楽=8:2くらいだがそれでも僕はなんとかへこたれずに頑張っている。

 気づかないうちに勉強が好きになっているのかもしれない。

 

 何があるからかわからない。

 幼いころはそれが喜びだったが今となってはそれが恐れの対象になりつつある。それは暗闇の中で真っ黒の怪物に追いかけられるくらい恐ろしい。

 何か光が欲しい。でもその光を手に入れることで怪物の正体を見てしまう。相手のことを知るのは悪くないどころか良いことなのに、僕はそれを見るだけということ自体が怖くてたまらない。その真っ黒な怪物が僕の顔をしていて、「結局だめなんだ」と言うかもしれない。

 

 

まだまだ考え中のこと

 

 僕は実は考えているようで考えていないのではないだろうか。

 

 このことを考え始めたのはここ最近(というか大学に入って)からだ。学問をするうちに自分の思考が脳の表層だけでうろうろしているような気がしたのだ。

 もちろん考えるというのには所謂「武器」も必要だ。武器とはこの場合考える手法であり、自分で練り出すこともあれば他者の力を借りて気がつく事もある。

 それを考慮に入れても武器の少なさ、そして、その武器の使い方(簡単に言えば基礎が少なく応用もできない)が僕はわかっていなさすぎる。

 幼いころから僕はすぐに答えを見る子どもだったらしい。それで武器を得て似たような問題に対処する。実はこれは高校の勉強のようにパターン化された簡単な問題に対処できるが、複雑な事象に対してはほとんど効果をもっていない。

 一旦時間をおいてから俯瞰することがいいことは分かっているが、俯瞰したところで分かる頭が自分にあるとも思えず、ついつい答えに先走ってしまう。

 

 学問とは答えのない世界に身を投じることだと思う。身を投じるには深い思考力、海のようにしんとしたまさに底知れぬ思考世界の構築が必要だ。

 このことに焦りが禁物なのは誰でもわかるだろう。焦ったところで何も始まらないことは分かっているが、働かない自分のおんぼろ頭の事を思うと夜も眠れないくらいの感情がこみ上げてくる。それは悔しさであり自分への憤りでもある。

 

 

今日の成果(復習)

 

・今まで当たり前だと思っていたことに名前がつけられていた。

 a:b=c:d⇒a+c:b+d (加比の定理)

 盲目的に使ってきたから改めて定理として眺めてみるともしかしたら私はこれを使いこなしていないのではないかという不安が脳裏をよぎった。

 算数といえど侮れない。

 

・立体角の定義

 半径1の球において球の表面積で定義される量(0≦Ω≦4π)

 こいつを求めるとき積分

 Ω=∫∫sinθdθdφ になる。(半径1の球の表面積は∫∫∫dxdydzで変数変換で∫∫∫r^2 sinθdrdθdφ=∫∫sinθdθdφ)

 

・あと関数の依存性を見逃して悩むっていうのが多いことに気がついた。文字で置いてあるものは既知の変数で表せないか吟味する癖をつけないといけない。

 

 

 時間がいくらあっても足りない。自分の脳の処理速度を10倍くらいにしたい。大学生活を無為に振ることだけは絶対にあってはならない。