数奇草

四畳半に魅せられた理系学生の備忘録

やつは変わったんだ……!!

 

 スポ根のよくあるネタとして、孤高のエースがチームメイトを頼るということを憶えたときに監督とかガヤとかが「やつは変わったんだ……! 人を信頼するということを学んだんだ!」みたいなのがありますよね。

 実を言うと、僕もつい最近まで孤高のエースを気取っていました。とは言っても、僕の場合、気取っていたのはスポーツではなく学問の話です。

 言っておきますがもちろんなんの理由もなしに他者との交流を絶っていたわけではないです。これには明確な理由があります。それは僕の独特な思考回路のせいでした。

 昔から僕は、論理を理解するという点だけでいえば人並み以上はこなせていました。しかし、理解はできても納得ができない。どうしても具現化できない違和感のようなものをしょっちゅう抱え込んでいました。それのせいで、親からは頑固な子どもと思われていた時期もあったようで、自分なりの解釈にたどり着かないとてこでも動かず親をよく困らせていました。

 だから、僕は他人に一切質問をしない人間でした。質問するのはいいことと教えられたことがあったのですが、僕は他人からの僕の質問に対するレスポンスに納得したことは一度たりともありませんでした。それに考え抜けば自分でなんとかたどり着くこともできたので(大方の物事の話ですが)、質問するという行為は自分にとってなんらメリットにならないとさえ感じていました。

 

 さて、大学に入って井の中の蛙であった僕は過去の天才の積み重ねにぶつかっていきそれらを発想するどころか理解することの難しさに打ちひしがれました。そんなときに、とある物理のサイトで見つけた文言がありました。

 

「学問に王道はないという話だが、実はある。それはよき師を見つけることだ。学問においては、あなたの学問を疎外することなく、そっと後ろから後押ししてくれ、時には理解の助けにもなるそんな師匠が必要なのだ」

 

 僕はこの文章を読んでなぜか「なるほど」と思わず心のうちで叫んでいました。これもまた論理的には今まで分かっていたのですがそれが潜在化していて、この文章を読むことでそれが顕在化するときを迎えたのでしょう。

 そんな学問の師匠は僕の「今まで」生きてきた場所にはいませんでした。そこにいたのは僕自身を鼓舞するのではなく自惚れさせるだけの人でした。(これは貶しているわけではなく、ただ、僕の独特な思考回路を共有する人物と巡り会えていなかったというだけの話です。人間的には素晴らしい人とは沢山巡り会えました)

 それではこれから先もくすぶっていくだけなのでしょうか。それは違うと僕は思います。今こそ自分がなぜ今の大学に入ったのか、その大学にいることの最大限のメリットを発揮するときがきたのだと思います。

 

 孤高のエースの僕ではなく、新たな境地に至った最強のエースになれる日が来ることを信じて、明日も明後日もその先ずっと、僕は立ち止まることがないでしょう。僕が勇気を出して伸ばした腕をとってくれるような素敵な師匠に会うためにきっと僕はアパートの扉を開いて外の世界へ旅立つことでしょう。

 

 僕が(勝手に)仲の良いと思う人には共通点がある。

 それは少なくともあるところで僕がその人を尊敬しているという点だ。

 安定感があったり、目上の人との距離感が上手だったり、ぶれない心があったり、教養があったり、僕はその人を追いかけたいという憧れを感じているのだ。

 裏を返せば何に関しても尊敬できる点を見受けられない人に対しては僕は一定の距離までは仲良くなるがそれ以上越えてはいけない線を引く。別に素っ気ない態度をとるわけではないし、待遇を変えるというわけではないのだが、どうしても心の奥底では信頼しきれないのだ。

 

 点と線のお話。

久々の長期帰省

 

 僕が実家に帰省してから半月が経過した。

 関西のうだるような暑さから逃れるために東北に引っ込んでいるわけなのだが、一向に関西は涼しくなる気配が見られない。どうやら今年は残暑が厳しいらしい。そろそろ帰りたくなってきた頃合いなので僕が関西に戻るのと同時に秋が訪れてくれないものだろうか。

 

 今日は思うことがあって書き始めた。

 

 文章にする作業は単に自分の考えをアウトプットすればいいもののように思われがちだが、どうしても自分の知っている単語ではしっくりくるニュアンスを表現できないことがある。つまり、存外文章は案外難しいのであるということだ。

 

 この上段落が僕の考えを垂れ流しただけの文章である。どうにも当たり前のことを偉そうに言っている恥ずかしい人にしか思えないのは僕だけだろうか。僕の文章はあまりにも酸化してしまっている。本当はもっと伝えたいことがあるのに、文章になるころには考えはボロボロになってしまっている。

 ところでfacebookなどで投稿される短文を読むだけでその人の文章力は一目瞭然だ。ぼくが書く文章は支離滅裂なのに対して、他の人の書く文章はうまくまとまっていて読みやすいと思うことがしばしばある。

 そういう文章を目にすると僕は悔しくて自分が情けなくて強い憤りを感じる。机を強く叩きたくなるくらいの劣情が心の中を満たす。誰にも何にも八つ当たりのできない感情が全身の毛穴から吹き出すのさえ感じる。

 文章は書けば書くほどうまくなる。それが分かっているくせに書かない。努力をすることが大切なのはわかるがすぐに面倒くさくなってしまう。こんな人間になにができるというのだろうか。

僕を綴る

 

 文字を書くという行為はほとんどの人が経験したことがあるだろう。
 親しい人に手紙をしたためるとき、講義の板書を写すとき、ちょっとしたことを紙に書き留めるときなど文字は様々なところで活躍する。
 

 僕は文字を見たり書いたりするのが好きだ。綺麗に字が書けた日は上機嫌にさえなるほどだ。
 とはいっても型にはまったような文字は好きではない。一人一人の個性がにじむような文字、その人を表わすような文字を見るのが好きなのだ。

 最近はパソコンで手軽に文字が打てるようになった。判を押したようなつまらない文字の羅列が今日も氾濫する。紙の上をペンが走るあの感覚も、走るときにたてられる爽快な音もいまや消えつつある。

 ただ無機質で豊かさも感じられない。惰性で連なる文字列。不自然なほど綺麗に整えられた世界で今日も僕は不器用に生きる。

 

 

 

 

きみのせかい

 

 私はきみが好きだ。きみのことを見るたびにきみの見る世界がどうなっているのかと思う。

 きみの瞳はいつも綺麗だ。透き通るように黒い瞳は輝いていて、きみのせかいがどんなに眩しいものかわかる。

 きみの瞳に映る景色はすべて綺麗にみえるんだろうなあ。私がいつも通る路地裏も見上げる青い空もきみを通してみればどんなに輝くのだろう。

 私はきみの瞳に映るものを見るたびに涙が出そうになるくらい胸があつくなるんだ。

 でもね、私は知っているんだ。

 きみをよく見る私は知っているんだよ。

 きみの瞳に私は映っていないんだって。