僕と他人
どうやったら人を好きになれるんだろう。
これは最近の僕の悩みだ。
少し前までは他人なんて大嫌いだし、それが自分の中で当たり前だと思っていた。
けれども、色々な経験を積むうちに自分の中で当たり前になっていたそれに疑問が浮かぶようになった。
別に全ての人を愛せる博愛主義者になりたいわけではない。そういう偽善者は今でも嫌いだ。それでも、他人を「嫌い」から始めるか「好き」から始めるかという問題を提起されたなら、やっぱり「好き」から始める方が格段にいい。
他人が好きな人にはその人のことが好きな人が自然と集まってくる気がするのだ。それは笑顔でいる人の周りには笑顔の人が溢れかえるように。
僕は少し他人というものに怯えているに違いない。誰だって分からないことは怖い。知らないものは自分の存在を揺るがせる可能性を生み出しうるからだ。だから、他人と接する、しかも見知らぬ他人と接する機会を増やせば自然と今のこの悩みも解消していくのかもしれない。
一朝一夕にうまくいくことではないけれども、少なくとも、僕は自分の周りにいる人はずっと笑顔でいて欲しい。だから、僕は今日から人を好きなろうと思う。
カビの季節は機嫌が悪い
自分で驚くほどの文章力のなさに脱帽する昨今、思考の整理術とかいう本があるらしいから一度は読みたい。読んだところで整理できる可能性は0だと思っているが、「私はこうして思考を整理したったw」という傲慢を見てみたい。きっと著者の中では自分の思考は理路整然としていて、これは他人にも教えてあげよう!エウレカ!とでもいう気分なんだろうなぁ。
今日は先輩から、本質的なことを見失ってそれ以外にリソースを使いすぎるのもどうかと思うという風体の忠告をいただいた。
たしかに、カオスの判定とか線形安定性解析とか誤差発達率とか、ぜーんぶ僕にはあまり関係のない話だもんな。さっさとそこらへんは先輩に頼って終わらせて本質的なKFとかアジョイント法とかの本を読みあさっていた方がいいかもしれんな。
それにしても相変わらず先輩の言うことの的確さというか、今の僕に必要な言葉を正確に授けてくれるその慧眼には憧れる。なにせ先輩は教授に10年に一人でるかの逸材っていわしめているくらいだもんな。僕なんかは10年に一度の変人くらいしかいわしめる自信がないです。こんなんでD進なんてしたらまさに高学歴の落ちこぼれのできあがりでございます。変に卑屈でそのくせプライドが高い人間になんてなりたくない……
我慢 != 美徳
僕の食事の時間は全部で三回あって、8:00、14:00、8:00に食べている。だいたい6時間くらいの等間隔で食べているわけだが、昼飯、夜飯前は体が浮遊しているような感覚に陥るくらいの空腹になる。そして、ご飯を食べたときの喜びといったらそれ以上のものはない。「食」って本当に大事、おいしい!というように俗世的な考えすら浮かぶ。
やはり、我慢した後のその解放は筆舌しがたいほどの喜びに満ちていると思う。でも、ひとつ注意しなくてはならないのは、我慢というのは美徳ではないということだ。
我慢というのは方法の一つだ。なんの方法かというとさっきから言っているように、「いつもの何倍もの喜びを得る」ための方法だ。それは決して目的ではない。
人が方法としていたことをいつのまにか目的にしてしまうというのは、結構多い。ぱっと思いつくならお金だろうか。お金は流通に用いられる手法だったが、それを稼ぐことが目的になっていると解釈できるということだ。
だから、我慢=美徳というのは我慢を目的としたなぁんの意味もないことなのだ。我慢に食われているとでも形容できるかもしれない。
僕は好きなときに我慢して好きなときに我慢しないような生き方がしたい。